2022-12-11

2022年12月11日の当用雑記

ラジオから、ユニコーンの『雪が降る町』が流れてきた。もうそんな時期なのか。確かに職場の片隅には、取引先が挨拶がてら置いていった来年のカレンダーが山積みになっている。そういえば12月だった。

今年のうちに会っておきたかった人や行っておきたかった場所がたくさんあったのに、もう年内は叶いそうにない。理由は一つ。コロナが怖いからだ。それも、コロナそのものというより後遺症の方が怖い。今年の秋はそのせいで本当に難儀したし、約2ヶ月間を空白にしてしまった。あんな思いはもうしたくない。ただその代わり、今年一番おもしろかったことというのもコロナ後遺症にならなければ味わえなかったに違いない、とも思う。

Bスポット。この言葉を聞いただけで少なからず色めき立ってしまう。コロナに罹って1ヶ月した頃、藁をも掴む思いで耳鼻咽喉科へ行き、上咽頭擦過療法=epipharyngeal abrasive theraphy、略してEAT、別名「Bスポット療法」を受けた。

問診票には、「ふらつき、倦怠感、ブレインフォグ」と書いたように思う。病人の扱いに慣れた医者にはこれで伝わるが、友人知人、職場の同僚、上司はもちろん家族であっても、多くの人にこの辛さをわかってもらうのはかなり難しい。ただ、文字一字一字は読めても、それが連なった文章の意味を理解するのがどうしても難しくなってしまったと打ち明けると皆一様に驚き、事態の深刻さに思い至った様子を見せた。

それほどの容態が、Bスポット療法を受けてちょうど3時間経った頃から劇的に改善した。改善したというか、吹き飛んだ。「ふらつき、倦怠感、ブレインフォグ」がすべて吹き飛んで、真っ直ぐ歩けるようになり、手も足も自由に動かせ、字を読めばその意味が自動的に脳内にインストールされるようになった。

そればかりか、突然笑いが止まらなくなってしまった。あとからあとから笑いがこみ上げてきて、おかしくてたまらない。ただ洗濯物を干しているだけなのに、無性に愉快で仕方がない。もうどうにかなってしまったのかと思った。自分でもどうしたらいいのかわからず、ただこみ上げるまま、涙を流してその場に笑い転げた。一緒に洗濯物を干していた夫の顔には、「困惑」と「安堵」の二言が浮かんでいた。

何しろ、何か感情が生まれたこと自体が1ヶ月ぶりだった。コロナに罹ってからというもの、うれしいことや楽しいこと、悲しいことや辛いこと、腹立たしいこと、そのすべてが感じられなくなっていた。突然起きた体の異変に耐えるのが精一杯で、昨日から今日へ、今日から明日へ、淡々と流れていく時間に押し流されるまま息をつなぐことしかできなかった。

Bスポット療法を受けて3時間後、すっかりのび切っていた心のひだはみるみるうちに蘇り、そのうち理由もなく胸が高鳴りはじめた。

動悸。息切れ。少し危なっかしい言葉を使うと、この一連の状態は「バッキバキ」とか「ブリブリ」とか、そういうものに近いのではないかと思う。でも、私はしらふそのものだった。

この世はこんなにも愉快で、刺激に満ち溢れていたのか。ただ健康であるだけで、ハイになるために何かをキメる必要などないということがはっきりとわかった。

それですぐに健康体が手に入ったというわけではなかったが、Bスポット療法を計12回繰り返し、私は徐々に健康を取り戻していった。

最近は、23時過ぎにはベッドに入り、8時間睡眠を厳守している。休日でも朝9時には起きて、ヨガマットを敷き、その上でストレッチと筋トレをする。できれば、つま先立ちになってするスクワットを1日80回くらいやっておきたい。4、5キロを週3回ほど走っている。アルコールも甘いものもあまりとらなくなった。長らく宵っ張りの酒飲みだったのが嘘のようだ。以前のような生活にはもう戻れないと思う。

そんなわけで夜に予定を入れることはめっきり減ってしまったが、先週は仕事を早く切り上げて映画を観てきた。

作品名は、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』。大学のぬいぐるみ(としゃべる)サークル、略して「ぬいサー」の話で、大前粟生の同名小説が原作の映画だ。来年4月公開予定と聞いている。

驚いたのは、私が通っていた大学がロケ地になっていて、しかも私が所属していたサークルの部室の、ちょうど隣の隣の部屋がぬいサーの部室になっていたことだった。おまけに録音の具合が良く、というのは雑音の拾い方が絶妙で、木製のドアを開けるときにドアノブが空回りしてしまう感触や、開く前に木戸が一旦しなる様子が、耳から手に蘇ってきてたまらなくなった。エモかった。少しネタバレになるが、私もナイーブすぎて授業に出られなくなった時期があったので、かなり共感してしまった。

それはそうと、ぬいぐるみと会話ができる人はすごいな、と素直に思う。ぬいぐるみだけでなく、赤ちゃんや犬にしゃべりかけられる人も同じようにすごいなと思う。私はいつも、何かしゃべりかけたい、とうずうずする気持ちとは裏腹に、笑顔で頷くことしかできないでいる。

赤ちゃんの親になったり、犬を飼ったりすればできるようになるのでは?と思ったこともあったが、母が危篤になったとき、どうしても声に出して呼びかけることが出来なかったことを考えると、そういう問題ではないのかもしれない。

何かを声に出すハードルがものすごく高い。独り言も言わないし、テレビにも話しかけない。だから思いのままぬいぐるみに話しかけ、声を上げて泣くぬいサーの面々を見ていると、単純にうらやましくなった。

では、ぬいぐるみにでも話を聞いてもらいたいような気持ちのときはどうするか。やっぱり全部、書いてきたのだった。無言で、無表情で、時には嗚咽を漏らしながら、キーボードを叩く。そうやって過ごしてきた。たぶんこれからも、それは変わらないような気がする。

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