2023-04-15

2023年4月15日の当用雑記

暦を、花の盛りが次々に追い越していく。少なくとも2週間は早いと思う。御池通を歩くと、けやき並木の葉が擦れる音がする。すでに風が薫っている。

2年前の今頃は、冷たい風が入ってこないようステンカラーコートの比翼をぎゅっと握って、夜の御池通を歩いていた。私は疲れ果てていた。

前の年の末に本が発売になって以来、勤め先の公休日のすべてを本のプロモーションに充てていた。本の写真展の在廊に取材、販促物用の原稿。やるべきことは山のようにあった。

それまで一人で私家版を作ったことは何度もあったから、本を完成させるところまでは想像できた。ただ、その後のことは及びもつかなかった。とにかく、本のことを一人でも多くの人に知ってもらう必要があった。

在廊するのは苦ではなかった。版元の誠光社や名古屋のON READING、広島のREADAN DEAT、神戸の1003、そして無印良品 京都山科。写真を撮ってくださった平野愛さんの展示を各地の書店でやらせてもらい、私もできる限り店に立った。

在廊には、古い友人や大学時代の知り合いもわざわざ来てくれた。コロナを経ての、久々の再会だった。長らくSNSで知って応援してくださっていたという方にもお会いした。自分にそんな味方がいたことに驚き、ただただ恐縮した。来客の合間には、写真展の会場となった書店の店主の皆さんと他愛もない話をした。どこへ行っても、どこの馬の骨とも知れない私を温かく迎えてくださった。誠光社の堀部さんは「コロナじゃなかったら、打ち上げもできてもっと楽しかったのにね」と残念そうにしていたが、私にはこれで十分過ぎるくらいだった。

問題は取材の方だった。一番最初の取材依頼は、印刷立ち会いを終えた直後に受けた。東京のラジオ局からだった。その日の夜の11時過ぎにやっと意を決して返事のメールを送ると、わずか数分後に簡潔な返信があった。東京の放送局というのは恐ろしいところだと思った。

幸い生放送ではなくzoomを使ったインタビュー収録だった。しかしそれすら生まれて初めての経験だった。勤めに出ている仕事もずっと事務職で、人前で話したことなど今までほとんどなかった。ましてやこのインタビューが、名前も顔もわからない大勢の人に届くと思うと怖かった。

取材が始まってみるとまず、流暢に話しをすること自体が難しかった。鳥取から京都に出てきて18年、いつの間にか、話す言葉は不自然な関西弁もどきになっていた。頭を標準語に切り替えようと思っても、よそ行きの言葉を使おうとするとますます怪しげな関西弁になってしまう。それが一層私を不安にさせた。投げかけられた質問に一生懸命答えようとすればするほど、自分が一体何弁で、何を言っているのかわからなくなった。

それにzoomの画面の向こう側の世界にも圧倒された。皆、音を立てないまま、忙しそうにサインを出し合っていた。私は本の著者というより、ただの音声素材として呼ばれたに過ぎないことがわかった。そして素材として正しく振る舞えない自分が心苦しかった。

結局、アプリをインストールしてまで放送を聴いてくれた義母からは、奥歯に物が挟まったような感想のメッセージが届き、私は改めて落胆した。放送音源は聴かなかった。

新聞の取材もいくつか受けた。しかしそのうち一つは、最初から最後まで質問の意味がわからず、何一つまともに答えられないまま終わった。プロの新聞記者とカメラマンを前にして、とにかく緊張していた。それに、取材というより尋問に近かった。記者の方の頭の中にはあらかじめ原稿のシナリオが出来上がっていたようで、私がそのシナリオから少しでも外れたことを言うと、厳しい眼差しで問いただされた。ほうほうのていで新聞社を出た帰り道は、御池通の風がやけに冷たく、きつかった。その後のことはしばらく記憶がない。

テレビの収録には、YouTubeで庵野秀明のインタビュー動画を繰り返し観て臨んだ。ちょうど『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された頃だった。「今の心境は?」「見どころは?」定型句を次々繰り出す記者を前に、庵野秀明は気ままな様子で答えて去っていった。自分もこんな風に振る舞えたらと思った。でもできなかった。zoomでの収録を、過呼吸になりそうになりながら終えるのがやっとだった。

その頃たまたま観ていたテレビに、笑い飯が出ていた。『やすとものいたって真剣です』という番組だった。笑い飯は、M−1で優勝したとき、決勝前の密着取材でもシリアスにならず、ボケ続けていたという。その理由を尋ねる海原やすよ ともこに、西田がこう答えていた。

「予選を通したのは審査員側なんで」「決勝戦に連続して出過ぎとか言われてましたけど、『だったら予選の審査員に言えや』思てました」

私は「これだ」と思った。依頼をしてきたのは向こうなのだし、インタビューがどんなに不出来でも、私が気に病む必要などない。緊張するだけ無駄だ。気楽にいこう。

でもやっぱり無理だった。取材の日が近づいてくるとどうしても不安になった。前の晩など、明日のことを考えると目が冴えて眠れなくなる。布団を頭から被り、無理やり目をつむったところで眠れないまま朝を迎えた。

そうやって、いくつ取材を受けても、全身が痛くなるほど緊張してはうまく喋れず、終了した。何度やっても、ついに慣れることはなかった。

しかし今は、あの冷たい風が吹いていた4月とは全く違う季節のように思える。街路樹のハナミズキが咲いて、ツツジの蕾は今にも咲きそうなくらい膨らんでいる。黄色のモッコウバラも、明日には満開になりそうだ。

勤め先の仕事が、例年通り繁忙期に入った。加えて今年は人が一人足りず、3人でやる仕事を2人でこなしている。単純計算で業務量5割増だ。ここ1ヶ月ほど、仕事をする以外は、寝て、食べて、体を動かすことしかできていない。常にアクセルベタ踏みの状態が続いている。

いつの頃からか、「心の持ちよう」にすべての責任を負わせることをやめた。40年近く生きてきて、自分が、環境さえ整えば、前を向いて進み始める真面目なやつだとやっとわかったからだ。逆に何かがおかしいときは、単にコンディションが整っていないだけのことが多かった。

だから余計なことは考えず、とにかく環境を整えることに心血を注ぐ。睡眠、食事、運動。「できるだけ」でいいからベストな状態を保つ。それだけサボらずやれば、あとはどうなっても大丈夫だとわかった。

力の入れどころと抜きどころがわかったら、自然と自分を信じることができるようになってきた。自分だけじゃない。他人のことも、信じて、たよりにすることができるようになってきた。すべての物事を「YES」から始められるようになってきた。というより、自分自身が「YES」そのものになってきた。

これまではそうではなかった。いつも何かひどいことが起こるのではないかとびくびくしていた。なんでも、疑ったり試したりすることだけは一級だった。自分をうまく取り繕えなければ、すぐにその場を退場させられるのではないかと怯えていた。

もしかして今なら、どんな取材を受けても緊張せず話せるかもしれないと思う。庵野秀明や笑い飯 西田のように上手くはなくても、私なりの言葉で本の良さを伝えられるのではないかと思う。

今思えば、私は本当にラッキーだった。初めて出した本があんなに色々な人の目に留まるなんて、奇跡みたいな話だった。ただ、奇跡の真っ只中に居た頃は、それに困惑し、疲れ果てていた。

あれから2年。私も、世界も、あらゆることが変わった。




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