2023-10-08

2023年9月29日の当用雑記

新刊の原稿をすべて書き終えた。とはいえ大半の原稿はすでに連載分で揃っていたので、書き下ろした原稿は片手で数えられるほどしかない。それでも、9月は毎週何かしらの原稿を仕上げていた。梅雨明け以来本当に一文字も書けなかったことを思うと、なんとか巻き返せたなとホッと胸を撫で下ろしている。

今年の夏の間、何をしていたのかちっとも思い出せない。ただただ毎日耐えていた。ひどい暑さに。猛烈な仕事の忙しさに。ただただ耐えて、明くる日に備えていた。休日に余暇はなく、体を休め、生活を繋ぐのがやっとだった。本も読めなかったし、音楽も聴けなかった。本当に、ずーっとそういう感じだった。この夏の京都の猛暑日は、43日を記録した。

先週末は久々に自転車を漕いで嵐山に行った。

観光客でごった返す渡月橋を横切り、岸壁に沿った道をずんずん行くと、緑色をした舟の屋根と「みたらし団子」と書かれた赤い旗が見えてくる。ここまで来るともう人影はまばらだ。

そのまま川岸にある茶屋へと続く階段を降りていくと、「お一人様、どうぞ〜」という気のいい声で花見ちょうちんの下がった野ざらしの座敷に通される。ビール、コーラ、甘酒、みたらし団子、かき氷、ところてん、川魚の天ぷら、鍋焼きうどん。しばらく悩んで、湯豆腐を注文した。

そよそよと吹く風が気持ちよかった。岸壁の陰にあるこの場所は、来ると少しひんやりして、いつも良い風が吹いている。店の人が隣のテーブルを拭きながら、「今日は熱いのんでも冷たいのんでもええねぇ」と言っていた。

目線を川の方にやると、左から右から、視界を青い貸しボートが横切っていく。ボートは次々に茶屋の舟に近づいては、みたらし団子やかき氷を買って離れていく。かき氷は茶屋の調理場ではなく舟の上で作るらしい。見ていると、あっという間にピンク色したまん丸い氷の山が出来上がった。それを渡された若い女性が、かき氷を顔の近くに近づけてボートの向かいに座る彼氏に写真を撮ってもらっていた。

そのうちに、注文した湯豆腐が運ばれてきた。裏っ返しにした蓋が土鍋の下に敷かれている。「熱いから、持つならココね」と店の人が丁寧に教えてくれた。土鍋の中はグツグツと煮え、表面からは湯気がもうもうと上がっていた。

湯豆腐が冷めるのを待ちながら、私は再び川の方に目をやった。川の向こう岸にある黄色いボートのそばで、二人組が戸惑っているように見えた。黄色いボートは茶屋の客専用だ。向こう岸にいる客は、このボートを漕いでこちらまでやってくることになっている。

ふいに茶屋のおっちゃんが、こちら側にある黄色いボートに乗り込み漕ぎだした。空の黄色いボートをもう一艘繋げて、それを向こう岸まで運ぶ算段なのだろう。空調服を着たおっちゃんの胴体は、空気でテディベアのように膨らんでいた。

ぐんぐんぐんぐん。おっちゃんの漕ぐ黄色いボートともう一艘は、みるみるうちに遠ざかって、あっという間に向こう岸まで着いた。それからおっちゃんは、運んできた空のボートを岸に置くと再びボートに乗り込み、すぐさまきびすを返した。

行き先は、その後なんとか漕ぎ出したばかりの二人組のボートのところだった。二人組は若い女の子たちだったらしい。オールが上手くさばけず、すでに少し川下に流されていた。おっちゃんは、慣れた感じで自分のボートを女の子たちのボートに横付けし、紐できつく縛った。そして漕ぎ出した。

ぐんぐんぐんぐんぐん。2艘のボートの陰が、物凄い勢いでこちらに近づいてくる。女の子たちは爆笑していた。おっちゃんの表情は見えなかった。しかし力強く前後するおっちゃんの背中や、オールを漕ぐ腕の動きから、誇らしげな様子が伝わってきた。ぐんぐんぐんぐんぐん。おっちゃんの背中が何度も前後に動いた。それを見ながら、私は湯豆腐を頬張っていた。おっちゃんの弾む胸の内を想像しながら汁を啜っていた。

岸に2艘のボートが着くと店の人が駆け寄ってきて、女の子たちの乗ったボートの縁を降りやすいよう足で踏んづけてやった。おそるおそる立ち上がった女の子たちは口々にお礼を言ってボートを降り、店の人に野ざらしの座敷へと案内されていた。

その後、おっちゃんは黙ってオールの位置を直していた。白い大きなマスクでやっぱり表情は見えなかった。相変わらず、胴体は空調服で大きく膨らんでいた。

「今日は気持ちが良くて、何時間でも居てしまいそうです」隣のテーブルの客が、店の人に声をかけた。店の人は川の方を見ながら答えた。「ほんまに。ぼーっとしてるだけで、ど~んどん時間が過ぎていくねん」

私は、暑くも寒くもないこんな秋の日が、この世にまだ存在するなんて信じられないような気分でいた。茶屋の湯豆腐は、アツアツでも、冷めてもおいしかった。

 

茶屋からの帰り道、自転車を転がしながら舐めるように脇の岸壁を見つつ歩いていると、やっと目当てのものを見つけた。

白い看板に「絶景」と手書きされた文字が、赤い線で四角く囲われている。その下に「ぜっけい」「GREAT VIEW」とも書かれている。岸壁に生えた草木の汁が降り積もったのか、全体的に緑色っぽく、薄汚れている。折り重なるようにして隣に置かれた別の看板には、同じ筆跡の文字が並んでいる。丸っこい、愛嬌のある字だ。

「心を開き」「魂を磨き」「命を味わう」

箇条書き風に、言葉の先頭に大きな赤丸が打ってある。私はこれを見に来たのだった。

私が最初にこの看板の存在に気がついたのは、確か30歳になったばかりの頃だったと思う。はじめは意味がわからなかったが、近くにも同じように「絶景」「GREAT VIEW」と書かれた看板がいくつもあるところをみると、岸壁の上に建つ寺の住職が立てたものらしい。その寺が絶景スポットということなのだろう。

しかし当時の私には、これが天からの啓示のように思えた。なんだかのんびりして、怪しさや説教臭さを感じるよりも先に、どこかとても良いところへ誘われている感じがした。

それまでずっと、私は「お母さんの言う通り」にするためだけに生きていた。より良く生きることはもちろん、自分の思うように生きることなど考えもしなかった。とにかく、母の考えから1ミリも外れないことしか頭になかった。自分に開くべき心が存在するなど認めていなかったし、魂といわれるもののこととか、命に味があるとか、そんなこと考えもしなかった。母が倒れてから6年の歳月が経って、30歳になっても、依然として私は「お母さんの言う通り」の内側に居た。

あの時から8年も経ったのだなあと思う。川上未映子は、時の流れは大根おろしのようだとエッセイに書いていた。さっきまでそこに一本丸々あったはずの大根が、いつの間にか、ざりざりざりとすり下ろされて、今はもう見る影もない。本当にそんな感じだ。来る日も来る日もひどい暑さで、もう二度と動かない大きな分厚い壁のように思えた今年の夏も、そのうちすっかりどこかへ行ってしまった。そんな具合に、私の三十代もまるですり下ろされたあとの大根のように思える。

私はあの日、どこにあるのかわからない、けどとても良いところの気配に誘われて、「お母さんの言う通り」の外に出てみることにした。それまでの30年間を手放して、この手でボートのオールを握ることにした。そして8年が経ってはたと気づくと、こうしてまだ見ぬ彼方に向けて文章を書いていた。そんなことを、あの時よりずいぶん薄汚れた気がする看板を前に、私は一人で確かめていた。

9月になって久しぶりにパソコンのキーボードに向かうと、あきらかに前と違う感じがした。安心して、全体重を自分に預けて書く感じ。こんな感触を味わうのは初めてのことだった。力まず、息を止めたりせず、一文字一文字、自分をそのまま原稿にのせていける。

今まではそうではなかった。気合いと心細さでいかり肩になりながら原稿に向かっていた。実を言うと私が書く文章には、多少の虚勢がこもっていた。夏を越してそれが雲散霧消した。

暑さや忙しさに、ただ耐えるばかりだったように思えた夏の間も、私はオールを手放さず、ボートを前に進めていたのかもしれないと思った。単にがむしゃらに書くばかりが文章の上達でもなさそうだということに、その時初めて気がついた。

それから、そうか、これが自信というものなのかと思った。英語の慣用句でいうと「count on」だ。夏を越して、それを自分に向けてやれるようになっていた。こんなふうに生きられるなら、なんでも叶いそうな気がしてくる。自信というのはすごいものだと、手に入れてはじめてその威力に驚いた。夢とか希望とか、そういう言葉が急に視界に入るようになってきた。

「絶景」の意味を辞書で引いてみた。「他に比べるものも無い、すぐれた景色。」とあった。

あの日、誘われた気がした「どこかとても良いところ」はここだったのかと思う。大げさかもしれないが、私は半ば本気でそう思っている。

肝心の自信の根拠は、特にない。

関連記事