2023-12-20

「餅」

職場の事務机の引き出しにしまった印箱を開けるとき、私はかさぶたを剝がすような心持ちになる。

印箱の蓋を開け、社名の刻まれた角印を取り出す。角印はまるで焼いた角餅を絵に描いたような形をしている。直方体の盤面からぷっくりと、焼いて膨らんだ餅のような持ち手の部分が生えている。角印を使う機会がめったにないこともあり、私はその持ち手部分に触れるチャンスを心待ちにしている。かさぶたを剝がすのは痛くもあり、心地よくもある。

子どもの頃、絵に描いたような焼き餅に猛烈に憧れた。お正月に母が焼いて出してくれる餅は丸く、一応は膨らんではいるもののすぐ萎み、アニメなどに登場する「焼き餅」とは似ても似つかないものだった。

一度でいいからあのハンコのような形をした焼き餅を食べてみたい。私は母にそうせがんだ。

突然の娘の要求に、母は順を追って事情を説明した。絵でよく見る焼き餅とは、そもそも餅の形が違うこと。この辺りの餅は皆丸いこと。丸い餅と角餅とは作り方が違うこと。角餅を焼いたとしても、絵のようにはいかないこと。

当時、まだ餅はスーパーで買うものではなく、家や町内で搗いてこしらえる時代だった。祖母の搗く餅は確かに丸い。ここで暮らす限り、焼いた角餅の膨らみ具合を自分で確かめることは叶わないに等しかった。私は餅が丸い土地に生まれたことを心底悔やんだ。

そんなことを甘味処でぜんざいを食べながら東京生まれの友だちに話すと、彼女は頬張った丸い焼き餅を箸で伸ばしながらこう言った。

「東京はみんな角餅でした。でも角餅より丸餅のほうが絶対おいしいですよ。こんな柔らかい餅は今まで食べたことがないです」

私は、いま立っている地面がぐるりと反転したような驚きを覚えた。

12月に入って最初の週末、私は夫を伴って久々に故郷の鳥取を訪れた。生まれ育った地を踏むのは12年ぶりだった。

京都を出て車で2時間半。中国道から米子道に入り、しばらくしたところで急に雪が降ってきた。さっきまで快晴だった空はみるみるうちに鉛色の雲に覆われ、フロントガラスに雪の粒が勢いよく当たった。それが中国山地の稜線を越えて日本海側に入った合図だった。

タイヤはノーマルのままだった。猛然と吹き付ける雪に私たちは戸惑い、焦った。しかし幸い、雪は積もるところまでいかなかった。

結局、1泊2日の旅程のうち晴れたのは初日の数時間だけで、あとはずっと曇天か雪模様だった。お天気は夫の表情にも影響した。

「眠たい眠たい眠たい眠たい」

帰り道、出発早々そう言いながらハンドルを握る夫に、助手席の私は肝を冷やした。好きな音楽をかけたり、一緒に大声で歌ったり、窓を開けて冷たい空気を入れたりしたが、夫は相変わらず目をしぱしぱさせていた。諦めてサービスエリアで休憩をとった後も、状態はたいして変わらなかった。

しかしあるとき急に夫の瞳に光が戻り、顔色に明るさが戻った瞬間があった。カーナビに表示された現在地のピンの位置は、ちょうど日本海側から太平洋側に入ったことを指し示していた。

私は思わず声を上げて笑った。偉丈夫とはいかないまでも、いつもはすこぶる頑丈な夫が、日本海側の気候にすっかり参っている。一方で、私の体に何か特別な変化が起きることはなかった。思い返せば、今まで雨や曇りで頭が痛くなった経験がない。その点において、私の身体はばっちり鍛え上げられていた。

急に元気を取り戻した夫の横で、私は目の前に広がる青空を見ながら12年前の正月の帰省のことを思い出していた。

その冬の年末年始、鳥取は大雪に見舞われた。

大晦日の昼間から降り始めた雪は音もなく降り続け、瞬きする間にもどんどん高さを増していった。

元旦の朝になると、雪は私の太ももの付け根のところまで降り積もっていた。当然車は動かなかった。スタッドレスタイヤも、チェーンも無意味だった。流通も、電気も止まった。

妹は車なら15分の職場へ、2時間かけて歩いて出勤した。見るものすべてが雪に覆われ、どこが道路でどこが田んぼかもわからなかった。妹の職場の介護施設では、夜勤明けの職員が日勤の職員の到着を待っていた。休むという選択肢はなかった。一面真っ白になった視界を、妹はたった一人、赤いニット帽を被り黄色い長靴を履いて、まるで世界を切り開くようにして出勤していった。

電気が止まった家では、こたつも、電気カーペットも使えなかった。ただしガスは通っていた。テレビの音もなく静まり返った家で、私は湯を沸かしたり、ガスストーブを点けて暖を取った。

その前の年の秋に母が倒れて入院して以来、家族は空中分解していた。

父親は自分の苛立ちや不機嫌をそのまま私と妹に押し付け、そのたび私はデパスを隠れて1シートずつ食べた。ほんのり甘いデパスを口に入れ、私は意識の外に逃げようとした。虚ろになっていく意識の向こうで、妹の「お姉ちゃん、ヘンだよ」という泣きそうな声が聞こえた。さながら、家の中は雪に閉ざされた阿片窟のように思えた。

ようやく阿片窟から抜け出せたのは、それから丸2日後の正月三が日最終日だった。道路は相変わらず雪で寸断されていたが、正午近くになって岡山行きの特急が出た。指定席はなく、全席自由になっていた。既に人がすし詰めになっている列車に、さらに後ろから押し込まれるようにして乗り込み、私は鳥取を脱出した。

出発後1時間半ほどして、ちょうど備中高梁に差し掛かった頃のことだった。にわかに窓から差し込んできた陽光が、混み合って窓ガラスに押し付けられた私の頬に触れた。柔らかく、暖かな光だった。

途端に、諦めの気持ちが胸に広がった。ここでは、何一つ伝わらない。こんなに暖かい日の光に包まれる土地で、この列車の乗客みんなの靴やズボンの裾がびしょ濡れの理由など理解されるはずがない。

そう思うと何もかも根こそぎ諦めたくなった。厚着した襟元が涙で濡れた。

その後、住まいのある京都にたどり着いた私は転がり落ちるようにして体調を崩し、およそ1ヶ月で体重は15キロ減った。食べることも眠ることもままならず、何度も何度も死に損なった。

「ここに来るのがあと2週間遅かったら、統合失調症で入院してたよ」

今の主治医が初診の時そう言っていた。

よく晴れた冬の日、私はこの青空の向こうで降りしきる雪のことを想像する。鉛色の空や、重く、湿った空気や、息もできないほど吹きすさぶ北風や、顔に叩きつける雪の粒の冷たさのことを思う。

子どもの頃、全国放送のテレビの天気予報が退屈で仕方なかった。目の前で降る冷たい雪が、そこで知らされることはほとんどなかったからだ。画面いっぱいに映し出される日本地図に、鳥取はおろか西日本の日本海側の天気を知らせるマークが表示されることはまれだった。私の住んでいる土地の天気は、取るに足りないものとして省略されていた。それを目の当たりにする度、私は小さく何かを諦めた。

私は事務机の印箱を開けるとき、ぷっくりと膨らんだ角印の持ち手に触れながら、絵に描いた焼き餅に恋い焦がれたことを思い出す。テレビの天気予報にがっかりしていたことや、12年前、すし詰めの特急の車内で頬に触れた陽光の暖かさを思い出す。この青く晴れ渡った冷たい空の向こう、山をいくつも越えたところに、雪が降りしきる町があることを思い出す。

それから自然と、海の向こうの瓦礫と空爆の恐怖の中に暮らす、パレスチナやウクライナの人々のことを思う。そこに暮らす人々の、私が一生触れることのできない痛みのことを思う。

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